著者本人との交流や思い出話などを書かせていただいた。
こちらにご紹介したいと思う。
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まずは、著者の金子貴一ことタカの思い出話から。
タカと初めて会ったのは、カイロに仕事で移り住んで半年余りも経った頃だったろうか。当時彼は既に、一度カイロを引き払っていたのだが、ガイドブックの取材でエジプトに来ていたのである。
知人の家で飲み会があって、わいのわいのと飲んだくれていた時、
「だからさあ、誰か一緒に来てくれないかなあ・・・」
と、彼が突然言ったのだ。
いや、酔っ払っていたから私の耳には突然に聞こえただけなのだが、話が途中で見えなかったから「何のハナシ?」と聞いてみれば、紅海のほうに取材に出かける、という。
スエズからハルガダに向かって紅海沿いに南上すると、少し砂漠のほうに引っ込んだところに世界最古の修道院があって、そこに泊りがけで取材に行く、宿泊の許可は取ったのだそうだ。
「通常交通機関はないところなのだが、今回はスエズから車を一台チャーターして行こうと思う。
その後は、ハルガダまで行ってさらにあれこれ取材をして、戻ってくるんだよ・・・」
「聖アントニウス修道院」という世界最古の修道院の存在を、私はそこで初めて知った(一応、以前の記事でごく簡単に触れたことがある)。
アゴアシは持つから、くっついてきて手伝ってくれる人はいないかねえ、という話に、
酔った勢いもあって、私は「ハイ」と元気に手をあげた。
いい中年になった今、しみじみと思い返せば、なんでも酔った勢いで話を決めてしまえる
年頃だった。
例え酔っていなくても勢いだけで、面白そうなものにはなんでも飛びついていた当時は、
まだ20代半ばだ。
若さとヴァカさが紙一重の、良くも悪しくも楽しい時代である。
これは『地球の歩き方 エジプト編』の取材だった。
タカの処女作でもある。
特に潤沢な資金があったわけでもないし、一泊500円ほどのホテルを根城にするバックパッカーが、オンボロといえども車を一台チャーターして、メジャーでもないポイントを目指すとは思えないから、これは純粋にタカのジャーナリストらしい興味からでた取材だったのだと思う。
で、助手の私は何をやるかといえば、アレはなによコレはなによ、あの人ナニしゃべってんのよ、と取材者を通訳にガイドにとこき使い、レストラン選定には無闇と熱意を燃やし(別に高級な小奇麗なところでなくても一向構わないが、食べ物に妙なこだわりが強いのは昔からなのだ)、その他なにかと彼の気持ちを「和ませる」ことに終始したのだった。
まあ、一人では荷物を置いて周辺を探りに身軽に出ることもできないし、誰であろうと人間が一人いればよい、という発想で、そういうヘンテコリンな同行者を気楽に連れて歩いてくれたのだから、タカも呑気なヤツだと改めて思う。
ただ、食べ物に関しては至ってアッサリした男なので、私の妙なこだわりには閉口した
らしい。
彼には珍しく、いまだにたまに思い出しては「まったくねえ・・・」と呟くことがある。
そんなこんなで、交流は続き、私の結婚式ではカメラマンまで務めてくれた。
これは我が母には不評プンプンで、
「お嫁さん(私のことだ)が、まるっきりカワイク撮れてないっ!」と、あとで激しい
ブーイングが出たものだった。
花嫁に関しては、ひたすらドキュメンタリータッチで、やれ忘れ物の処理だ、
記念写真の指示だ・・・とウェディングドレスで仕切りまくる姿を克明に追ってくれている。
「ウソでいいから、ソフトフォーカスに優しげな風情の「花嫁写真」を
一枚くらい残してくれてもよかろーが!」
と、改めて思わないでもないが、まあ仕方があるまい。頼んだのは私だ。
それにしては、花婿だけはそれらしい「斜め横顔ポートレイト」などが残っているのは
不思議でならないのだけれどね。
まあ、いまさら責めまい。
かくのごとく、金子貴一は実に面倒見がよく、フットワークは軽く、寛容にして温厚、
しかしいい具合に、妙なところでいい加減な男である。
真面目ではあるが、生真面目クソ真面目ではない、ともいえる。
そして彼がひとたびアラビア語をしゃべりだすと、辺りが瞬間でカイロのホコリ臭い
街角に変わる。
身振り、手ぶり、口ぶりのすべてが、実に見事にエジプト人なのだ。
だから、彼とアラブ料理屋でメシなど食うと、なんとも実に楽しい。
ある晩ある時、そんな調子で食事をしていたら、
「サマワにいるときにさあ」
などと口走ったので、ナンダナンダと首を傾げたところ、
「自衛隊と一緒に通訳で行っていたんだ」と、いとも簡単に言う。
「あ〜、でも、民間人が一緒だったなんて今マスコミに知れると大変だから、
間違っても変なところで書いたりしゃべったりしないでね」
ウン、ワカッタと言ったついでに、聞いてみた。
「・・・ところで、タカって、フスハー(正則アラビア語)できたっけ・・・?」
「できないよ」
「・・・イラク方言、わかったっけ・・・」
「わかるわけないじゃん」
「じゃあ、いったいどうやって・・・」
「ええっとねえ、まず相手に『僕、イラク方言わかんないし、フスハーもできないから、
エジプト方言でしゃべってちょうだいね』って頼んじゃうと、向こうが適当に調子あわせてくれるんだよね」
以上、あっけらかんと笑って言っていたが、実はやはり大変だったのだろうなあ、と
思ってはいた。
そして、今回上梓された従軍記を読んで、よくもまあ軽く言ったもんだと、なんだか
頭痛がしてきたくらいである。
それにしても、通訳の人選にあたって、自衛隊もかなり慎重にいろいろ調査したはず
なのだが、敢えて彼を選んだプロセスにはちょっと興味がある。
アラビア語がいくら難解だと言ってみても、それを流暢にこなすアラブ世界の専門家は、
巷に決して少なくはない。
肩書きや表向きの経歴、という部分では、この金子貴一よりもむしろ「適任に見える」
候補者がいたはずだ。
しかし敢えて彼が選任されたのは、言ってみれば「人間力」のようなところをきちんと
評価されたが故だろう、と私は思う。
マスコミも世論も「イラク派兵問題」には相当喧しく騒ぎたてていた、あの当時の情勢下、
よくこの判断が下せたものだな、とつくづく思う。
そして、その期待に応えて、立派に任務をやり遂げて戻ってきたタカも、実に誠に
立派な男である。
書籍自体については、既に拙ブログでいろいろと書いたので、そちらをご参照いただきたい。
だが、この一冊は単なる民間ジャーナリストの従軍記に留まらないことだけは
お伝えしたい。
異文化の狭間に立って何事かを調整する立場になったとき、どんな資質と発想と感性が
必要とされるか?
それが随所に読み取れる、実に秀逸な「異文化対応マニュアル」である。
実に個人的な感慨ばかりの「推薦の辞」となったが、彼の人となりを想像する一助になれば幸いだ。
そんなわけで、この一冊は彼がいままでの人生を通じて、ひたすら前向きに、
他の人間にはなかなかできないスタンスで努力し、学んできたことのひとつの集大成に
なっている。
これから先へ、そしてさらに高きへと、まだまだ進んでいくのは間違いないと思うだけに、
ジャーナリスト金子貴一のターニングポイントとなる本書を、まずは皆様に御一読いただきたい、と、切に願う次第である。
(アリーマ山口)
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上記に『軍事情報』編集主幹のエンリケ殿下のコメントもついて配信された。
配信分には、目次や殿下独自の目線でのコメントなどもあるので、是非こちらもあわせてご参照いただければ幸いだ。
