(
前回からの続き)
●主人公の旅程
元の小説に話を戻そう。
そんなわけで、アガサは当時のあのあたりの状況やインフラに強かったので、
『春にして君を離れ』という小説が出来上がったのだと思う。
さて、これがどんなドラマティックなものかというと、なんということはない
一人のイギリス女性のモノローグだ。
この小説の主人公ジョーンは、いわゆる「良妻賢母」である。
それも20世紀初頭のイギリスの地方都市で、それを美徳と頑なに守ってきた
女性だ。
「かしこに生まれ、育ち、嫁ぎ、しかしてまた かしこに葬らる」
それを自分の当然の人生として生きてきた「しっかりした」女性。
完璧な姿を常に心がけ、自分でもその姿に満足しきっている。
物語の発端は、バグダードの鉄道敷設の責任者として赴任した男性に
嫁いで同行した次女が病の床につくところから始まる。
母としては、何を捨てても娘の身の回りを整えるために、
万難を排して飛んでいく「美徳」は当たり前のものだ。
時はおそらく第二次大戦勃発数年前ほどだったと思われる。
20年以上前に読んだときは、簡単に読み流したが、今になってみると
ジョーンは、実に強烈な旅程をこなしているのである。
話の中身を語ると、ミステリーの結末をしゃべるような小説なので、
ジョーンの旅程だけをざっとまとめよう。
往路は楽なものだった・・・とは言っても、3〜4日かかっている。
某イギリス地方都市からロンドンに出て、ブリンディシまで鉄道、
その後は船でエジプトに渡り、おそらくアレキサンドリアから鉄道で
カイロへ向かっている。
その間は語られていないが、どうもピラミッドも見物せずにバグダード行きの
飛行機に乗ったようだ。
そして、バグダードで病の床にある娘にかわって、イギリスにいるのと同じ様に
万事を指揮し整え「ゆっくりしていったら?」という娘とその夫に
「家に帰らなければ。私がいなければあの家は何一つうまくいかないのだから」
と、バグダードからトルコ国境近いモスル行きの列車に乗る。
モスルまでは半日程度の行程らしい。
距離にしてみれば300キロ程度なのだから、当時の鉄道旅行も大変だ。
その駅にある「レストハウス」というものに泊まり、車で7キロはなれた
テル・アブ・ハミドへ。そこで一泊してアレッポ行きの列車に乗り、
さらに乗り換えてイスタンブル行きの寝台特急へ。
そして、おなじみ「オリエント・エクスプレス」で数泊しながらロンドンへ。
順調に行けば、一週間程度の旅程なのだが、テル・アブ・ハミドの
砂漠のど真ん中のレストハウスまでの道が雨で悪路と化して立ち往生。
列車に乗り遅れた上、交通が遮断されて陸の孤島と化した場所に
たった一人取り残されてしまう。
周りにいるのは「メムサイープ」と彼女を呼ぶ、インド人の給仕と
土地の手伝いの少年だけ。
(次回へ続く)