2006年10月08日

再び、ラマダーンの風景 〜彼らの信仰、私のお仕事 其の二〜 【第64話】後編

(前編よりつづく)

●エジプトのキリスト教徒たち

なんだか愚痴が長くなったが、これは私の宗教的信条よりは、マジョリティーだから
マイノリティーに対する配慮を欠いても良い、という無神経さに対する、
実に子供っぽい反発でもあった。

「エジプトはイスラームの国」とされている。
実際に国教はイスラームだ。

でもしかし、だからといって、100%がイスラム教徒というわけではない。
これはエジプトに独特の状況でもあるのだが、コプト教徒という東方正教系の
キリスト教徒始め、少数のカソリックやプロテスタントが、エジプト全人口の
10%以上いるのだ。

表向き、こういったキリスト教徒は、イスラム教徒とうまく共存しているように
いわれているが、実態を見れば、表面社交上はうまくやっているけれど、実感や実生活では
マイノリティーなりの鬱屈憤懣を相当抱えているな、という印象がある。

エジプトのキリスト教徒は「存在を許された人々」というポジションに甘んじてきたが、
昨今ではそういった状況に不満がかなり鬱積してきて、社会問題化しつつあるらしい。

昨年の記事のどこかに書いた記憶があるが、この断食期間中に昼間の社員食堂に行くと、
コプト教徒の不満が思うさま吐き出されている。

曰く、
「我々だって宗教上の断食がある。同じ信仰を持ちながら、イスラム教徒だけが
優遇されるのはオカシイ!」
「辛いツライって、連中は年一回だ。我々はもっと多種多様な断食期間が年中ある」
「なんにせよ、ヤツラは勝手過ぎる!」
などなど・・・。

そこで私も、宗派は違えどキリスト教徒、ということがわかると、こちらは逆に
ぎゅっと距離を詰めてくるから面白い。

まあ、不満を噴出させるわりに、コプトの社員もラマダーン中はイスラム教徒と
同じ時刻に、全員ではないにせよ全速駈足でそろって退社していたのだけれど。
その辺が特に気にならないらしいのは、大変面白い・・・。

尚、当時、某外資系企業が「コプト教徒はラマダーン中も通常と同じ退社時刻」
としたら、陰で凄まじいブーイングの嵐が巻き起こったところも見た。
確かにこれは、よくよく事情を聞くと片手落ちで、コプトの宗教行事を全く考慮していなかったので、怒る口実を与えたようなものなのではあった。

しかし、コプト教徒の場合は、敬虔な信者と、なんとなくナァナァな信者が明らかに
いるから、一律に決めかねたのかもしれない。

なんであれ、宗教というものは難しい。
切羽詰らない限り、ゆるゆると接するのが、やはり一番無難なのだ。

ましてや「我々の正義と常識」と称する、西欧型の感覚(例えば民主主義)を、
これが正しいと高圧的に押し付けようものなら、今度はイスラム教徒もコプト教徒も
一致団結して、アンチ感情に走る。
国や地域によっては、マイノリティーが西側のパワーをうまく利用することはあろうが、
基本的に好感情で迎え入れられているわけでないのは同じだ。

以上、今回は不満とボヤキの思い出話。
長く住んでいても、こういうことはあるのだ。

不満なく住める国など、世界中探してもあるわけないのだし。

この辺の奇妙さを感じられるようになったのは、同じイスラーム圏のトルコに
住んだあとのことだった。
一口にイスラーム圏と言っても、状況は色々なのだ。
それを実体験しただけでも、トルコで過ごした時は貴重だったと
いまさらに思うのである。
  

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2006年10月06日

再び、ラマダーンの風景 〜 彼らの信仰、私のお仕事 其の二 〜 【第64話】前編

●続「お祈り」と「お仕事」、そして「宗教」

「エジプトでのラマダーンは正直に告白すると、案外人間関係的にしんどかった」
と、前回ぼやいた。

単なるボヤキである。
個人的な愚痴だ。

でも敢えて言ってしまうと、ラマダーン中のエジプトのイスラム教徒というのは
往々にして非常に押し付けがましくなる。
時には高圧的ですらある。

イスラームに限らず、信心深い人と対するときに、その宗教の詳細やその是非に
ついて議論するのは、どこの世界でもタブーだろう。
もしやると、たいていは感情的になって相手がヒステリックになるか、逆に
非常に沈鬱な顔つきで立ち去られた挙句に、二度と口を聞いてもらえなくなるか、
そのどちらかだと思ってよい。

いや、エジプトなどでイスラム教徒を相手にそういう議論をしたわけではない。
たまたま私は古いプロテスタントのクリスチャンの家で生まれ育ったので、
中学生くらいのころに教会で、そういう類の議論をぶつけたことがあったのだ。

たかが子供のいうことに、大人がむきになって
「あなたのいうことは間違っています! 何故なら間違っているからですっ!!」
という様な反応をするのにウンザリした挙句、教会に行くのをやめてしまった
ことがある。

いま私が大人としてその場にいたら、そんなコナマイキなガキは一瞬でひねって
やれると思う。
自分の宗教に対するスタンスを、常に取りかねている不信心ものの私だから
言えることもあろう(勿論、これは威張れたことではない)。

一方で、敬虔で信心深い人というのは、往々にして視野が狭く頑ななところがある。

そんな経験が頭の隅に残っていて、現地で宗教の話は極力避けていた。
虎の尻尾で遊ぶには、本人あまりに余裕がなかったのである。

でも、腹の立つことの一つや二つ、三つ四つ五つ、こうした異種の信仰を掲げて
対してくる同僚になかろうはずはない。

例えば
「断食をしないのか? 何故だ?? 良いことではないか・・・。
少なくとも我々と、気持ちを分けあえるのに、何故オマエは断食をしないのだ」
などという問いかけは、聞き飽きるほど聞いた。

「私はクリスチャンだから」と、我が母や親族がどう考えても「是」としなかろう
一言で、全ての議論を逃れていたものだった。

そもそも、自分たちの大事な宗教行事に、そう簡単に異教徒を誘うことは、
神(アッラー)に対する不敬ではないのか??、とよく不思議に感じたものだ。
何の神であれ。

(*注:アッラーというとイスラームだけのように思われがちだが、英語で"God"が
「神」を一般に示すのと同様、アラビア語のアッラーも普遍的に「神」を意味する)

こういった宗教儀式である断食に「体験参加」するほうが、よほど不敬に思えるが、
そういう考え方は偏狭なのだろうか?

まあ、したい人はすればよいと思うが、私は頑としてしなかった。
あくまで、私個人の気持ちの問題である。
日本で寺社仏閣にいっても、見学のみで参拝は避けた私が、エジプトだからといって
「断食」という真に宗教的な「行」に参加するのは、間違ったことに思えたのだ。

挙句に「XX社の日本人スタッフは、断食をしているそうだ」などと言われる。

あ、そう・・・そのヒト、何日か前に我が家で飲んだくれて帰ったがな・・・などは
言わぬが花だ。
イスラム教徒ですら、本音と建前の使い分けが必要なのだ。
その彼を責める理由は、全くない。

それにしても、黙ってこっそり昼食を済ませてオフィスに戻れば
「あ、ナニカ食べたな・・・?」と、鼻をヒクヒクさせられるのには参った。
そういう煩悩に耐えるのが「行」なのではないのかねえ。

いまはやめたが、当時はヘビースモーカーだったので、煙草を吸う場所も考える。
普段は「女子喫煙所」状態の場所で、煙草なんぞ吸おうものならば睨まれるのだ。

だから、わざわざゲスト用のトイレで、人気の少ないところを選んで「個室」に
閉じこもってコソコソ吸っていたものだ。
不良に憧れる中学生じゃあるまいし・・・と、たいそう情けなかったのを今でも
覚えている。

しかし有り難いことに、この期間はイスラム教徒が「イフタル(断食明けの食事)」
を自宅でとれるよう慮って、退社時間が一時間ほど繰り上がる。
だから、全員全速駈足で退社したあと、人気のない静かなオフィスで仕事をするのは
なんだか楽しかった。
解放感があるということは、それなりに一日中、結構ストレスがたまっていたという
ことでもあるわけだが。

私一人だけ残った事務所で、ゆっくりと煙草を吸う。
他には、隣のオフィスにイギリス人の上司が居残っているだけだ。

はあ、やれやれ・・・と思っていたら、一人仕事で居残りになっていた下っ端の若造
が、
「オマエ、ラマダーン中なのに、どういう神経してるんだ!」と言ってきた時は
さすがにカチンときた。

「就業時間は過ぎてる。ココは私のオフィスだ。しかもオマエの場所は外の廊下だ!」

なんという、大人気ないことを言って、オフィスのドアを閉めたりしていた・・・
あ〜あ。

(後編に続く)
  
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2006年10月01日

第63話 再び、ラマダーンの風景 〜彼らの信仰、私のお仕事 其の一〜(後編)

(前編のつづき)

●「お祈り」と「お仕事」

トルコのときの話は昨年記事をご参照いただくとして、エジプトでのラマダーンは
正直に告白すると、案外人間関係的にしんどかった。

昨年10月13日配信の「第31話」では、以下のようなボヤキが出ている。

「実際、断食をしているイスラム教徒には、異教徒もきちんと敬意を払って行動
することが厳しく求められる。
その雰囲気ときたら、ほとんど押し付けがましいほどで、気を遣いながらも
結構むっとくることがあった。
でも、大勢が「断食すべし」という空気なので、文句など言いようがない。」

去年はこの程度ボヤいただけにしておいたが、実はこの行間には汗と涙の歴史が
刻まれているのだ(ちょっと大袈裟)。
単純に現地にいるだけであれば、案外楽しいことも多いこの季節だが、
カイロのホテルでは仕事と同僚たちとの人間関係の兼ね合いに結構苦労した。

神に祈ることの大切さは、よくわかっている。
どんな宗教であれ、祈ることから全ては始まる。
郷に入らば郷に従え、という言葉もある。
だから、誤解しないでほしいのだが、それでも物には限度というものがあるのだ。

私のいたオフィスは、男性三名と女性一名の同僚と同室だった。
そしてここが「女性スタッフ用のお祈り場」になっていたのだ。

同室の男性スタッフは全員がイスラム教徒だったので、当たり前の用に仕事を中断して
部屋を空ける。
私は「女性だから居ても構わないけれど、目の前だけは通らないように」と
言われていた。

そこまではいい。

しかし参るのは、社内で商談中など、急に書類や資料が必要になってオフィスに
駆け戻ってきたときだ。
「お祈り中」ということで、内側からがっちり鍵のかかったオフィスのドアに、
焦りつつ呆然とすることがよくあった。

こればかりは仕事の邪魔なので、お祈りを始める前にオフィスの鍵を外の秘書の
デスクに置いといてくれろ、と頼んだが、毎度毎度きれいに忘れてくれるのだ。
秘書が居るときは鍵を借りて入るが、居ないときには外でお祈りが一段落つくまで
待つより他ない。

そんなに焦らなくても、現地のペースで仕事をすれば、と言われてしまいそうだが、
当時は結構時間に追われて仕事をしていたのである。

そんなわけで、相当強行に交渉して、怒り泣き、なだめすかして、どうにか
「お祈り中、アリーマが出入りできる用にしておくこと!」という形にしてもらった。
いや、実をいうと、今ではちょっと反省しているのだけれど
「そうしないとドアを蹴破るぞ!」と暴れたりしたのだ・・・嗚呼・・・。

どうせセールス&マーケティング部(私が所属していた部局)の女性スタッフは
皆一人ずつ変わりばんこにお祈りをするのだから、入り口に居る秘書が不在でも、
「次の人」が、オフィスの鍵の番をしておくか、それができないなら
鍵を私のわかるところに置いといてオクレ!という、私の要求は
非礼なものだったのだろうか、と今でもときどき考える。

ちなみに、この部屋の片隅には「お祈りセット」が常備されていた。
ヒジャーブ(髪を覆うもの)、長いスカート(ウェストはゴム入り)、そして絨毯一枚が、
袋におさまっていた。
コーランも一冊置いてあった。

ところで今でも謎なのは、礼拝前の「お清め」だ。
やはり女性スタッフのたまり場兼喫煙所だった、本来はゲスト用のバスルームで、
手はともかく足や顔を洗っている現地人女子は、五年間一度も見たことがない。

夏場は素足だが、冬はしっかりとストッキング着用だし、何しろ化粧は派手だ。
一度落として化粧直しなんて、考えられない。
女性の場合、その辺どうしてたのだろう・・・?

本来ならば、手、足、顔と首は洗ってお清め、という手順があるはずだが、
あれは省略可能なものだったのだろうか?

ご存知の方、教えてください。
私も調べてみますが。

(2006年9月28日(木)配信)

・・・この話題、次号配信に続く・・・

  
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2006年09月30日

第63話 再び、ラマダーンの風景 〜彼らの信仰、私のお仕事 其の一〜(前編)

◆ 第63話 再び、ラマダーンの風景 〜彼らの信仰、私のお仕事 其の一〜(前編)


●ラマダーン月、始まる

去る9月24日までに、イスラム諸国を含め全世界が、ラマダーン月に入った。
ご存知のように断食をする月で、うっかり「断食月」などと訳しているところも
あるものだから「ラマダーン=断食」と思う向きがあるらしい。

だから、去年など某大新聞が堂々と「小泉首相が、ラマダーン明け朝食会を主催」
などという「???」な記事を出してしまったりした。
しかも気の毒なことに、見出しだったのだ。

「ラマダーン明け」と言うと「ラマダン月が明けた(終わった)」ということで、
そういう祭りや行事もあるけれど、意味はまるで違うものとなる。
「断食明け」とするのが正しい。

これは、早速誰かが気付いて叱られたと見えて、夕刻見たインターネット用の記事は、
こっそり訂正されていた。
この新聞社、外信部や会社上層部には非常にレベルの高いアラビストがいるのだ。
でも、記事を書いたのは政治部の記者あたりだったのだろう。
・・・カワイソウニ・・・。

でも、誤解が生まれるのも、まあ仕方あるまいよ、とも思う。
恥ずかしながら、かく言う私も現地にいる間、しばらくはそう思っていたからだ
(理由になっていないかしらん?)。

以前にも書いたかもしれないが、ラマダーンというのは「月の名前」である。
日本の陰暦で、例えば八月を「葉月」と呼ぶように、イスラーム暦(こちらも陰暦)
の月の名前にもそれぞれ意味があるのだ。
ラマダーン月はイスラーム暦の九月にあたる。

これを誰かが「断食月」などと訳してくれたので、特に突っ込んだ知識がない場合
「断食=ラマダーン」と思い込んでも無理はない。
そう思いませんか(人のせいにするのはよくないだろうか?)。

ラマダーンの語源は「ラムズ」で「焼き払う」「灼熱」という意味があるそうだ。
命名の由来は「罪を焼き払う」という意味合いがある、という説やら、
この習慣が始まった七世紀当時、メッカあたりは夏の「熱暑」の頃だったからだ、
とか、諸説ある。

詳しいことをご存知の方、是非教えてください。


●ラマダーンについて

ラマダーン中の生活や習慣については、昨年の連載で一通り思いつくままに
書いてみた(思えば、連載開始以来もう二度目のラマダーン、ということになる。
時の経つのは早い)。

その一回目で、ざっとラマダンがどういうものかは触れた。
詳しくは以下を参照いただきたい。
http://arima.livedoor.biz/archives/50110597.html

昨年10月分に目を通していただけると、各国現地の事情なども書いてある。
http://arima.livedoor.biz/archives/2005-10.html

でもまあ、それが面倒な方のために改めて簡単に解説すると、

1.この月に「断食」をすることで、貧者と思いを一つにし、己の禊ともする。
1.食を絶つのは、夜明けから日没まで。食べ物だけでなく、飲みもの、煙草など
全て絶つ。日中の性的交渉も御法度である(夜はいいのだ)。
1.月の始まりと終わりは、月暦に従い「新月から新月まで」となる。
世界各地で月の見え方は違うので、各国各地で始まりと終わりの日が変わってくる。
1.この期間の善行は、通常時よりも徳が高いとされて、富める者が貧しい者に
積極的に施しを行ったり、コーランを熟読したり、といったことが励行される。

そういうわけで、例えば普段は夜明けのお祈りなど、なんちゃってサボってしまう
不信心者も、この期間だけはきちんと真面目に起きて祈ることが多い。
大酒飲みは、約一ヶ月の休肝月ともなる。

ただ、国によってかなり差はあって、例えばトルコのように、特に気にせず普段の
暮らしを続ける人が多い国もあるし、サウジなどの湾岸諸国やエジプトのように、
国をあげて信心に向かうところもある。

(後編につづく)

2006年9月28日(木)配信


  
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2005年11月08日

「ラマダーン明け」のこと

さて、この記事が配信される(2005年11月3日)ころには、そろそろラマダーンも明ける。
ラマダーン月に続くシャッワール月の一日目は「イード・アル・フィトル」と
いうお祭りだ。
イードが「祭り」、アル・フィトルは「断食明け」のこと。

トルコでは「シェケル・バイラム」。
バイラムが「祭り」、シェケルは「砂糖」。
トルコではこの日にお菓子を配るのでそう言う。

この日から3日間ほど、イスラーム圏はどこも連休に入る。
この期間、飛行機や列車などの交通機関は予約でパンパンとなる。
日本のお盆や正月のようなもので、地方から都市部に出稼ぎにきている人たちが
一斉に帰郷するからだ。

ところで先日、小泉首相がイスラーム圏の各国大使や関係者を集めて「イフタ
ールの会」を主催したのだが、そそっかしい某新聞が「首相は『ラマダーン明
け』の食事を堪能した」と書いたそうだ。
余計なお世話だろうけれど、これは「断食明け」が正しい。

なんだか紛らわしいのだけれど、ラマダーンというのはヒジュラ暦の「月の名
前」で、この言葉自体に「断食」という意味はない。
月の名前は「焼く」という意味の「ラムズ」からはきている。

この暦が成立した時代「ラマダーン月が暑い時期だったから」という説と、こ
の期間清く正しく暮らすことで「罪を焼き払う」からだ、という説があるそう
だ。

尚、以上は最近知人に教えてもらって入手した辞典の受け売り。
この辞典、なんと初版は1885年。出版はインドのニューデリーだ。
何しろ古い辞書なので、結構細かいことが綿密に書き込まれている。
どうやら英語圏では古典らしくて、かなり色々なバージョンがあちこちで出て
いるからか、案外安価に入手できる。
ご参考までに。

"Dictionary of Islam"
Thomas Patrick Hughs(著)
  
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