おかげさまで5万アクセスを達成した。
せっかく再開したと思えば、諸々の事情でなかなかこちらの更新が出来なくなってしまったというのに、それでも覗きにきてくださる方がいる。
真に本当に、有難いことだと思う。
改めて御礼申し上げます。
このブログに関しては、あまり考え込まずに、ゆるりゆるりと更新していこうと思っているので、お見限りなくたまに覗いていただければ幸甚である。
5万アクセスを記念して、というほどの話でもないのだが、数日前にひょっこりと
とても懐かしい本が出てきた。

もうシリーズ自体が無くなってしまったのだが、
一時期JTBの出版事業局が『フリーダム 自遊自在』という
『地球の歩き方』のような別シリーズを出していた。
このシリーズの『ギリシア・トルコ・エジプト』が
1992年に初めて刊行されたのだが、
この本のエジプト分は実は私が書いたのだった。
もう絶版だが、一応アマゾンで古書扱いで出てはいるらしい。
ギリシア・トルコ・エジプト自遊自在(1,994年版)
ギリシア・トルコ・エジプト 自遊自在(1997年版)
これも一度は改版がはいっているので、私の出したものよりはかなりマシになっているはずだが、どんな具合に変わったか興味もあって、恥ずかしながら買い求めてみた。
ただいま手元に着くのを待っている。
この辺のご報告は改めて。
この本の取材は1991年の6月に行った。
まったくもって馬鹿みたいだが、なんだかスケジュールの関係と行きがかりで、
よりによって一番熱暑激しい頃に、まるまる一ヶ月、炎天下の砂漠なんぞを駆け回って
いたのだ。
若いというのは素晴らしいことだなあ、と、最近中年らしくすっかり体力の落ちた
我が身のひ弱さをしみじみ思う。
それとともに、こういうことを見境なく敢行する馬鹿さ加減を、呆れつつ懐かしく思う。
体力の要る馬鹿なことは、そんなわけで若い頃にやりつくしたはずだが、何故か未だに
時々似たような状況に陥るのは、学習能力の無さ故であろうか。
ここまで凄まじいことは、どう頑張ってもやりこなせないので、あっちこっちで上手く
手を抜いたり、こっそり逃げて他所に押し付けたり、ということになるのだが、
これが「年の功」だとしたらちょっと情けないかもしれない。
エネルギーが無駄に有り余っているので、ちょっと考えれば楽が出来るところを、
遮二無二無理矢理遠回り敢行(気付かぬまま)、などということの繰り返しだ。
でも、この「無駄」の過程で見たこと聞いたこと感じたことが、実は強烈な印象とともに
記憶に焼きついていることが良くある。
ワカサはヴァカさ、とは思うものの、最近は強烈で鮮烈な感覚を覚えることが本当に減ってしまった。
ヴァカもそれなりに、いいところはあるのだろう。
この本は、勢いだけで取材して、勢いだけで書きなぐったものなので、94年版を出すに
あたっては、細かいフォローや追加取材をする羽目に落ちた人たちが、結構大変な思いを
したらしい。
実はこの仕事の焼き直しは、初めてエジプトに行くきっかけになった、昔の職場の
後輩に押し付けられたのだ。
その後輩が、私がその張本人と知らずに当時の諸々の面倒ごとの愚痴を語るのを、
背中にうっすら汗をかきながら聞いてあげたことがある。
何故か突然に気前よくビールなんかおごってしまう、私の挙動に不審を覚えられた結果、
事態が発覚してお互いかなり気まずい思いをしたものだった。
まあ、ひとりで突貫状態でやっつけたので、細かいところが相当荒っぽかったとは思う。
でも、均質性は無いながらも、改めて読むと結構面白い取材もやっているのだ。
手前味噌だが。
ついでにひっそり付け加えると、写真も自分で撮ったのである。
出版社の担当者に「写真もお願いします」と言われて、
「カメラ、持ってないですが」
と明るく答えたものだった(・・・嗚呼!)。
呆れて絶句しながら、担当者は「これ、あげます」と、当時でも旧式なバカチョンを
一台どこかから引っ張り出してきて支給してくれたものだ。
ところで、この本の仕事を回してくれたのは、他ならぬ
「金子貴一」だった。
JTBから『地球の歩き方』のライターだったタカに「こういう本を企画しているけれど
誰かライターの心当たりはいないか?」という問い合わせがはいったのだ。
さすがに競合する同系統の本のライター本人は使えないので、という実に図々しい
問い合わせなのだが、タカの偉いところはそこでウダウダ言わず、即座に友達を紹介して
しまうところだろう。
そんなわけで、不肖ワタクシは「地球の歩き方の取材に同行して、アシスタントであった」という理由をもって(!)、この本をやることになった。
こうしてみると、タカには昔から色々世話になって面倒をかけているのである。
この本に絡む思い出話が、そうこうするうちにどっと沸いてきたので、何回かに分けて
ご紹介しようかと思う。
(つづく)
*補足:
本記事の中で「バカチョン(カメラ)」というレトロな用語を使ったところ、いくつか「差別用語では?」という御指摘をいただいた。
これは、所謂「インスタントカメラ」や「コンパクトカメラ」のことで、私がまだ小学生くらいのころに出てきたオートフォーカスのカメラを指す言葉だ。
ただ、これがたまたま朝鮮の人への侮蔑後と同音異義である、ということで自粛ムードが
高まり、その後に追いかけデジカメの時代となって、すっかり「死語」となっている。
しかし、この「バカチョン」の「ちょん」に関しては、江戸時代からある「ちょんまげ」
「ちょん切る」の「ちょん」で、「短い」→「足りない」→「頭が悪い」という意味合いになった言葉だ。
「チョンの間」などという言葉も、遊郭で使われていたが、歌舞伎用語が元らしい。
明治時代初期に『西洋道中膝栗毛(*)』というオモシロ本が出て、ここに「馬鹿でも、ちょんでも、野呂間でも・・・」という表現が出てくるところがよく引っ張り出される。
だから、差別用語云々以前に「馬鹿でもちょんでも」というのは、定型表現として成立していたわけだ。
*注:『東海道中膝栗毛』のパロディで、弥次さん北さんの孫がロンドンの万国博覧会に行くという内容の本らしい。読んでみたいな(笑)
こんなことクダクダ書き連ねるならば、素直に記事を書き換えたほうが早いし、どっちみち
上品な言葉でもないのだが、とりあえず上記のような言葉であることだけ、
為念補足しておく。
私は、上品でも下品でも、日本の古い言葉は好きなのである。
でも、程度は知れているので、不見識の御指摘は今後も歓迎します。
本当です。
追伸:
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